昨日のリクルートのDNAの本の続きである。
リクルートが自動車メーカーの採用活動を手伝ったときに感じたことがおもしろく載っていた。
日産は優秀な人材を集めていたが、豊田はタフな人材を採用していた。それに対して、ホンダの本田宗一郎氏は、採用と面接試験は人事部に任されていたが、『入社後半年は全員を工場に配属。その間、上司である係長へ毎週業務レポートを提出させ、半年後に藤沢武夫副社長と、レポートを読みつつ新入社員一人ひとりと1時間ほどかけて面接し、向き不向きを見て配属先を決定している』と話されていたと書いてある。3社の違いが分かっておもしろい。
これ以外にも、リクルートブック作成のために松下電器の松下幸之助さんを訪問したときに、江副さんが大阪支社長やカメラマンなど総勢5名でインタビューに望んだところ、幸之助さんから「私ひとりのインタビューに5人も来られて、おたくはえらい儲かってる会社でんな』と言われ、それ以来江副さんは極力ひとりで訪問するようになったとかかれていたりして、大変参考になる。
ビジネスの大きさや相手の重要度に応じて、会議に臨むこちらの人数を増やしているような会社は将来性がない。仕事の必要度に応じて、人数をそろえるべきである。
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初めてコメントを入れさせていただきます。
内田先生のブログはいつも”気づき”を与えてくれるので、とても楽しく拝読させてもらっています。
さて、松下幸之助さんの話が出ておりましたので、小生の知るエピソードを少しご紹介したく思います。10年ほど前に滋賀県のある電機代理店の会長さんからお聞きした話です。
終戦後わずか1ヶ月後に、幸之助さんが一人で訪ねて来られ、「焼け野原となった大阪をなんとか復興させたい、ついては、おたくの会社にある電気商品を買取らせて頂き、復興に役立ててもらえないか?」というお願いをされたそうです。
滋賀県は戦火の影響が少なかったので、ほとんどの人が米(当時はヤミ米)を求めて来ていた時期でした。食うや食わずの状況でしたので、最初はそのお願いかと思ったそうですが、幸之助さんはもう商売のことを考えていたそうです。
しかも、商品と言っても電線や電球もほとんどわずかしかない、それでも構わないので、現金で支払うので売って下さいということでした。
終戦後のインフレが起きている中で、ほとんど現金が役に立たないことも分かっていたのですが、その方は幸之助さんのこうした姿勢にいたく感動し、店内に合った在庫を全て買い取ってもらうことを快諾したそうです。翌日、松下電器の社員がリヤカーを引いてきて、門真まで運んでいったとのことでした。
その電機代理店の会長さんは、「商売人と言うのは、自らに果たした使命を全うするまではやり遂げるものだ」ということを肝に銘じていくことにしたそうです。
このようなエピソードは幸之助さんを知る方からよくお聞きするのですが、その後、自分で気づいてそれを実践している方とそうでない方がいるので、なかなか面白いということを感じさせてくれます。
また、実践している方が成功者となったので、そこが幸之助さんが神格化されてしまうようなことになっているのでしょう…。
一方で、人間としての幸之助さんの話(かなりの癇癪持ちだったこととか、本当の子供は松下という会社だったということ)もあるので、これは、別の機会にご紹介したく思います。
ともゆきさんへ
コメントありがとうございます。松下幸之助さんは私も大好きな経営者です。彼が亡くなる前にあってみたかったなと今でも思っています。もう一人、会う前になくなってしまったのが本田宗一郎さんです。
以前ブランドにはストーリーがあるという話を紹介しましたが、松下幸之助さんにまつわる話は数え切れないくらいあると思います。しかもそれらがたくさんの人に知られています。水道哲学や熱海の取引先会議の話などです。ということは松下幸之助は立派なブランドと言うことになります。
偉大な経営者だから、いろいろ語り継がれているのでしょうが、そういう話があるから偉大な経営者とみられているという側面もありそうです。
滋賀県の話、大変興味深かったです。ありがとうございます。CoCo一番屋の創業者の話とも通じるところがありますね。